緑が青々と繁り、日は暖かくて、体は動きやすいのに、部屋の中で一日じっとしておくのはもったいない。ましてや寝ておくことなんてできない。礼は、皆がまだ部屋で寝ていろと、止めるのも聞かずに、最初は去と弟子たちの講義を端の方で聞いていたが、その内その中に入り、一緒に作業を始めた。元気そうに立ち振る舞っているので、去ももううるさく言わずに放っておいた。そのまま礼は右肩の傷を負う前と同じ生活を取り戻した。
礼は薬を作る館で、薬草を干す作業をしていたところに、縫とは別の侍女がやってきた。実言の従者が来て、今から実言が束蕗原に来るとの知らせがあったと告げた。礼は、キリのいいところまで作業を続けて、慌てて自分の部屋に戻っていった。
「礼様。何をぐずぐずしていらっしゃいますの?実言様は神出鬼没ですから、まだまだいらっしゃらないと思っていたら、すぐそこにいらしたりするのですよ」
縫に小言を言われながら、手を洗い、つけていた前掛けを外して着替えをした。
「少しはお化粧もなさいませ。味も素っ気もないですわ」
「時間もないでしょう。いいの」
礼は、短く鏡の中の自分を見た。左目に眼帯をした自分の顔が映った。左半分がないといっていいこの顔を、どんなに彩っても、美しくなる気はしない。均衡の崩れた顔は、飾らずそっとしておく方がいいと思っている。
急いで支度をしたのに、実言は一向に現れなかった。
「どうしたのでしょう?去様とお話しでもされているでしょうかね」
縫がそう言って、母屋の様子を見に行こうかと体を起こそうとするのを止めさせて、礼は肘掛に寄り掛かって、薬草のことが書かれた書物を開いて見ていた。
急に母屋との渡り廊下が騒がしくなって、廊下をゆっくりと鳴らす足音が聞こえた。礼は慌てて、書物を閉じると、居住まいを正した。開け放たれた部屋に、実言が一人いつもと変わらぬ姿で現れた。
「やあ、礼」
「よくお越しくださいました」
久しぶり会う実言に対して、礼はかしこまって言った。そんな様子もお構いなしに、実言は礼の正面に座ると、早速切り出した。
「礼。先程、去様とも話をしたんだけど。お前の傷の具合もよいとのことだし。普段の生活も支障なく過ごせているとのことだったので、そろそろ束蕗原から都に移ることにしよう。一月ほどのうちに準備をしてほしい。都ではお前のお父上とも話をして、結婚の儀について準備を進めているところだ」
礼はその話を聞くと、いつものように左を向いて視線を落とした。
束蕗原を離れる。実言がこうして戦から帰ってきたのだから、どうしようとも都に帰らなければならないのだ。束蕗原の生活は、この土地の空気と同じで新鮮で、明るく、去の手伝いをして他の弟子たちやこの地の人々と交流し、人を治すことの喜びを知って、生きがいを感じられた夢のような土地だった。そして、ここに連れてきてくれたのは、全てを手配したのは、この男だった。もし、実言が戦に行くのに、都に置かれたままだったら、都の噂や、人との付き合いで毎日鬱々とした気持ちで生活していただろう。この男は全て見通して、私をここに連れて来てくれたのだろうか。
「礼はここの生活がとても気に入ったのだろう。去様からも、お前がとても熱心に勉強していることを聞いているよ。でも、お前は本来のお前の役目を果たすために都に戻ってもらうよ」
実言は、縫に視線をやると、縫は悟ったように、部屋から出て行った。実言は礼に近づき、礼の手を取った。
「礼。こっちを向いて。そんなにここの生活がいいの。私との生活よりも」
実言はそう言って、礼の左頬に手を伸ばし、上を向かせた。
「そんなことは言ってないわ」
礼は素直に実言の右手に従って顔を上げたが、実言の言葉に不服そうに口をとがらせた。
「お前の気持ちはわかっているつもりだけど、私の妻になるために、我慢しておくれ」
「我慢なんて、してないわ」
「ふふふ。嬉しいことを言ってくれるね。お前が我が邸に来るのが待ち遠しいよ」
実言は礼の手を握って立つよう促すと、几帳の陰へと連れて行って、久しぶりの再会を喜んで抱き合うのだった。
束蕗原を去る。その現実を実言に突きつけられてから、五日たって、岩城家の使者が礼に都に戻る日を正式に知らせにやってきた。今日から二十日後の六月十日と決まった。それまでにここを去る準備をするようにと、実言から礼宛の手紙に記されていた。実言は去にも手紙を書いており、これまでの礼に対するお礼が述べられていた。
「あなたはいつか、また都に戻らなければならないとわかっていたことだし、実言殿が帰ってこないことを嘆いたこともあったけど、こうして、いざ、ここを去ってしまうと思うと、寂しくて寂して」
去は日に日に涙を流すことが多くなって、一人、部屋に篭ってしまうことがあった。
思えば、母の姉で叔母という血のつながりだが、まるで我が子のように可愛がってもらった。また医術や薬草の師匠である去との時間は何物にも代えがたい貴重な時間であった。
「去様。私は都に帰ってもこの勉強を続けたいのです。どうか、力を貸してください」
礼は去に頼みこみ、書物を譲り受けて、束蕗原を去った後も、勉強のために助けてもらうことを許してもらった。
そうこうするうちにあっという間に二十日は経ってしまい、六月十日の朝となった。
都から束蕗原に来た時と同じように、朝早くに牛車に乗り、半日かけて束蕗原から都に帰る。去をはじめ、同じように学んだ弟子たちや、侍女、下男、下女、近所の村の者までが見送りに来てくれた。皆、袖で顔を覆って、流れる涙を隠して、礼の乗る牛車を見送ってくれるのだった。礼は御簾を少し上げて、その光景を目に焼き付けながら束蕗原を去っていった。
実言から礼への手紙の中で、礼は身一つで帰って来れば良いと書いてあった。詳細を知らされぬまま、牛車に乗って、まずは礼の実家である真皿尾家に入った。婚礼の式は三日後とのことで、まずは実家で父親や兄たちとの再会を喜んだ。客人の過ごす部屋に通されて、自分はもう真皿尾家の者ではないことを思い知らされるのだった。
それから三日後、とうとう婚礼の式の日を迎えた。
早朝から、真皿尾家の家の中は浮き足立っている。なんといっても、この家の娘は、礼しかいないため、婚儀の準備は初めてのことだし、母親は他界しているので先頭に立って指揮をする真皿尾の古参の侍女は心もとなく、何か見落としはないか皆に厳しく言いつけた。
礼は岩城家から手伝いに来た侍女たちに婚礼の衣装を着つけられた。衣装を着たあとは、縫と二人気になった。
「礼様、お化粧はわたくしにお任せくださいませ」
縫と向かい合い、礼は眼帯を外され、自分の顔を縫に預けた。
「あなた様はもっと自分に自信をお持ちにならないと。都に帰ってきたからには、これから宮廷の権力者の妻たちの戦いもあるでしょうに。礼様は実言様の妻として、立ち向かわなければなりませんわ。すぐに横を向いて逃げていたのでは、実言様に申し訳が立ちません。よろしいですね?」
縫がいつもより強気の檄を飛ばしながら、礼の化粧と髪、左目を覆う布を時間をかけて仕上げていく。
「礼様。今は、私が一番礼様のことをわかっていますわ。これからはあなた様がもっと自分のことを知る努力をなさらないと。今日がその第一歩だと思ってくださいね」
そう言って縫は礼に鏡を手渡した。
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