「蓮!」
庭で呼ばれた蓮は首だけ庭に向けて返事をした。
「待って!もう少し待って!」
やっと決めた帯を手早く結ぶ。同じ部屋にいた榧と珊は簀子縁まで出て、蓮の名を呼ぶ本家の娘、藍と付き添いの従者を迎えた。
都の西にある庭園での宴会の手伝いに行くために、誘いに来てくれたのだ。本家から庭園に行く途中に、実言邸があった。
今日の宴会は王族の若い王子や王女たちが開くもので、そこに宴会の手伝いをしてほしいと声が掛かったのが貴族の年の若い女人たちだ。今日この宴会を主催するのは次期大王と言われている有馬王子だから、本家は藍を遣わし、その付き添いとして蓮も行くことになった。
しかし、蓮は違うことでこの宴会を楽しみにしていた。それは、二日前に景之亮が蓮の部屋に来た時のこと。
部屋の真ん中に円座を二つ敷いて、向かい合って座ったところで、蓮が話し始めた。
「二日後に、佐々良の宮で有馬王子様達をはじめとする王族の宴会があるのでしょう。それのお手伝いに、本家の藍と一緒に行くことになったの。急なことで、何を着て行こうかと母や妹たちと話していたのよ」
すると、景之亮は驚きの表情とした。
「?」
蓮が首を傾げて見つめると。
「その宴の警備を私も任されているのだ。宮殿から王子や王女を警護してそのまま宮の警備をする」
「まあ、そうなの?では、宮殿でお会いするかもしれないわね。景之亮様のお働きの時の姿を見られるなんて、楽しみ」
という会話があった。
景之亮に必ず会えるとは言えないが、もしも出会った時のために身に着けるものや髪型を入念に作った。そうしたら、藍を待たせることになってしまった。
榧と珊は階を下まで降りて、藍と衣装の話をしている。
あくまでもお手伝いに行くのだから、あまり派手な色や柄は使えないし、仰々しい飾りを付けて行くのもよくない。控えめな淡い明るい色を重ねて、藍の優しい雰囲気を際立たせた衣装は、誰もが振り向くその美貌とともにはっと目が留まる。本家もよくよく考えて今日の衣装を選んだと思える。
「藍!待たせたわね」
蓮が慌てて階を下りてきた。
「何を話していたの?」
榧と珊に蓮は訊ねた。
「藍姉さまの姿、きれいねって珊と言っていたの。この鴇色の裳がいいなって。私たち朱色のものばかりだもの。ね、珊」
榧に相槌を求められて、珊は大きく首を縦に振った。
「首飾りもきれい」
藍は二髻に髪を上げて、小さい緑の石を繋げて真ん中には赤い平たい石を置いた首飾りを着けていた。邪魔にならない美しい飾りは、藍を引き立てた。
「ほんとね、藍の姿は決まっているわね。私は着ていくものが直前まで決まらず、待たせてしまったわね」
「ううん。いいの。では、行きましょうか?」
榧と珊とともに後から部屋に来てくれた母と侍女の曜が美しく着飾った二人を見送る。本家の体の大きな従者とともに、蓮と藍は正面の門から佐々良の宮へと向かった。
女人四人が蓮たちの姿が見えなくなるまで見送ったところで、簀子縁の角から実言が現れた。
「ああ、礼。実津瀬は?」
「実津瀬?実津瀬はここにはいないわよ?」
「部屋にいなかったから、てっきりここに来ているのかと思ったのだけど」
「ここには、……榧と珊しかないわ。もしかしたら、宗清と二人でいるのかもしれないわね」
そこで実言は頷いて、引き返して行った。
実言は宗清が使っている部屋に行くと、ちょうど二人が庭に出ていた。
「実津瀬、宗清」
二人に呼びかけると、一斉に振り向いた。宗清はすぐに階の下に駆け寄ってきた。
「二人で何をしているの?」
「兄様と少し裏門から外の通りを散歩していました。今帰って来たところです」
「そう?宗清は、まだ一人で門から外に行ってはいけないよ」
そう宗清に諭している父を見て、心の中で実津瀬は苦笑いをしてしまった。勝手に外に出て行った自分が、大きな問題を起こしたことをまた思い出したのだ。
「実津瀬、頼まれてくれないか?ある邸に届けてほしいものがあるんだ」
「……はい……承知しました。あの……ある邸とは?」
「須原家に行ってほしいの。その邸の主人に渡してほしいものがある」
「はい」
「では、今から行ってくれないか?早い方がいいから」
「わかりました」
「宗清、榧と珊はお母さまのところにいるよ」
宗清はその言葉に笑顔になって庭から母の部屋に向かった。
「私の部屋に来ておくれよ。大きなものではないのだけど、だからと言って胸に入れられるほど小さなものでもないのだよ」
実津瀬は父と一緒に部屋に行き、片手に抱えるほどの箱を渡された。
「中は割れ物だから、大切に扱っておくれ。私は今から本家に呼ばれていてね。頼んだよ」
実津瀬は邸の場所を聞くと、前に通ったことのある場所だったため、一人で表門から出て行った。
大路を横切る時は、地方から都に来た荷車を引く牛や馬と大勢の人々が南から北、北から南へと激しく往来している。もし、よろけて転んでしまったら右脇に抱えている大切な物が壊れてしまうかもしれない。そんなことになってはいけないと、実津瀬は用心して体をくねらせて大路を東から西へと渡った。
大路を挟んで西側に来ると、人通りはぐっと減って歩きやすい。五条通りに入って何本か小路を越えて少し南に下ると目当ての邸、須原家の門が見えた。
門の前で少し様子を窺っていると、中から従者の男が現れた。
「私は岩城の……」
と名乗りかけたところに。
「ああ、岩城様!主人から聞いております。さ、どうぞ!」
伸びた体を急に倒して、男は頭を低くして実津瀬を門の中へと招き入れた。
父は詳しいことは言わなかったから、実津瀬は言われたことをただ遂行するだけだが、父実言と須原家の主人は打ち合わせでもしていて、須原家では近々岩城から届け物があることを使用人たちに周知していたようだ。
小脇に抱えた箱はとても大事なものなのだ、と実津瀬は逆に背筋が伸びた。
実津瀬が門の中に入ると、従者は走り出して玄関前にいた男に耳打ちした。耳打ちされた男も急に顔色を変えて、従者を邸の中に走らせて自分は実津瀬の元に走ってきた。
「岩城様、主人から岩城様がいらっしゃることは聞いておりました。さ、こちらに」
と前に立って実津瀬を案内した。
主人である須原正美の部屋の前まで連れて行ってくれるものと、実津瀬はその後ろを歩いた。
「岩城様のお邸に比べれば、小さな庭ですが花が好きな者がおりまして、よく手入れをしておりますので季節によってお楽しみいただけます。こちらに」
ゆっくりと歩きながら男は実津瀬の目の高さまで繁った木や足元に咲く小さな花を見せる。晩夏に咲いた百合や女郎花、朝顔を見て部屋の前に出た。
階の下には、明るい衣装を来た……女人が立っていた。
実津瀬は、てっきり壮年の男性が迎えてくれるものと思っていたから、女人がいることに驚いた。この邸の娘が、来客があるとは知らずに庭に出てきたのか。
実津瀬は、その女人に目を向けた。どこかで見たことがあるような気がする。
その女人が階の上に顔を向けて。
「姉さま」
と呼びかけた。その言葉につられて、実津瀬は階の上に顔を向けると、そこにも女人が立っていた。
「……!」
実津瀬も階の上にいる女人も、お互いの顔を見て凍りついた。瞬きもせず、互いの顔を凝視した。
階下にいる女人だけが、おもしろそうに笑っている。
「……あなたは……」
実津瀬は驚きのあまり、すぐには言葉が出なかった。やっと出たとしても、そこまでだった。
「あなた様は、踏集い(とうつどい)で姉さまと一緒におられた方」
階下の立っている女人が言った。案内してきた須原の舎人は、驚きの声を上げた。
「なんと、芹様と岩城様はお知り合いでしたか?」
妹と目を合わせてにっこりと笑った。
実津瀬の頭の中は混乱した。
父に頼まれて、須原家に物を届けたら、踏集いの池のほとりで出会った気になる女人がいた。これは偶然の出来事か……。
ここに来るきっかけが父なのだから、この女人と出会うことは偶然とは思えない。言ってしまえば仕組まれたことかもしれない。
「姉さま、下りてきて。お父さまは、姉さまに受け取るようにとおっしゃっていたのでは」
小さな声で妹が言った。
でも、階の上に立つ女人は固まってしまったようで、動くことはなかった。
「……こちらが父の岩城実言に代わって私がお届けに上がった物です。どうぞ」
実津瀬は階の下まで行き、差し出したが、女人は動かない。仕方がないので、隣にいた妹が両手を差し出し受け取った。
「遠いところを、ありがとうございます」
妹は言った。そして、階の上の姉に視線を送ると。
「……ご足労いただき、ありがとうございました。あいにく、父は出かけています。届けていただいたものは必ず父に渡します」
姉は言ったが、表情は変わらず厳しいものだった。
「よろしくお願いします。では、私はこれで失礼します」
実津瀬は言って踵を返した。
姉のあの厳しい顔は初めてではないので、気を悪くすることもない。自分と同じで、驚いてどのような表情をしたらいいか、わからなかったのだ。だから、階から動けずにいた。
実津瀬は門まで来ると案内してくれた舎人に訊ねた。
「私たちは踏集いで顔を知っているだけの間柄なのです。だから、先ほどお互いが顔を合わせて初めて家柄などを知りました。あの姉妹の名前は何という」
「おお、これは、まだお名前をご存じではありませんでしたか。当家の姉妹、姉が芹様といい、妹は房様と言います」
「そうですか。私は岩城実津瀬と言います」
「実津瀬様!お名前は私どもにも聞き及んでおります。宴でご披露される舞が素晴らしいと。今日はこのような遠くまでお足労頂き、ありがとうございました。主人にも、岩城様がいらしたことを申し伝えます」
門の外に一緒に出た後、須原家の舎人は深々と頭を下げて、実津瀬を見送った。実津瀬の影の先が見えなくなるまでその頭は上がることはなかった。
実津瀬は持って来た荷物がない分帰りは身軽だった。大路を西から東にすいすいと渡れた。
体は軽くなったが、胸の中は重苦しい。
あの女人……芹と出会うことは父が仕組んだことなのだろうか。どこにでも間者を忍ばせて探っているのだから、きっと私が池のほとりで芹と並んで座っていたことを父は知っていてもおかしくない。雪とのことも知れていたし。
そして、芹と自分を会わせたことに、どんな意味があるのだろうか。ま、一番は妻候補だろう。雪を失って、色恋などは当分いいという気持ちであるが、そうはいっておられず、年ごろの良い家柄の女人を息子に娶らせたいという思惑があるのだろう。
父の手の平の上で操られているようで反抗したい気持ちが沸き上がって来るが、あの女人は気になっていたので、こうしてどこの誰なのか知れてよかったと思った。
父の思惑をあれこれ考えても仕方ない。今は、芹という女人と自分のことを考えよう。
実津瀬は実言邸の裏門に入る前に大きく伸びをした。
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