二日前から妹が、気分転換に外出しようとしつこく誘ってきたのだ。踏集いの時期も終わって、外に出ることもなくなってしまった。紅葉を楽しみながら木の実を拾いに行こうと。父親の機嫌が悪く、部屋にいたら当たられてしまうので、妹とならいいかと出てきたのだが、こんな企みが仕組まれていたとは。
いくら妹といえども、こんな裏切りは許せない。
芹は目をつり上げて房を睨んだ。
房は姉の恐い顔を見て、後で何を言われることかと思ったが、今は何とかなだめてあの人の前まで連れて行かなければならない。
「私は!もう話すことなんてないわ」
「そんなことはないわ」
逃げられないように房に腕を絡められて一緒に歩く。向こうに立っている男も、こちらに向かって歩いてくる。
芹は左手で口元を押さえて、顔を背けて前を見ないようにした。
実津瀬が近づくと、従者は脇に避けた。そして、房の前に立つと房は姉の後ろに回り込み、姉を前に押し出した。その時は、芹は逃げることを諦めた。
芹の前に立った実津瀬は、恥ずかしそうに笑った。
「私があなたのことを諦めきれないと知った従兄弟が、もう一度あなたと話をさせてやりたいと考えてくれてね、ここまで連れてきてくれた。私も先ほど知ったんだ。こんなことを企んでいたと。……でも、あなたを諦めきれていないのは事実だから、またこうして話せる機会を作ってくれてありがたいよ。……あなたは、騙し討ちをくらったと、怒っているのかな?」
芹は顔をそむけたまま聞いていた。
白々しい……。目の前の男もこの男の従兄弟も、そして妹も……。
芹は心の中で悪態をつく。
誰もかれも私を苦しめるのね。
そんな芹の心の中をわざとなのか誰も思いやる者はいない。
実津瀬は芹の右手を取ると、先ほど見ていた空き地の先にある竹林の中へと連れて行った。
青い竹がすっと空に向かって伸びている。実津瀬と芹はなだらかな傾斜の上に腰を下ろした。
実津瀬が芹の左側に座ったので、芹は少し体をよじって実津瀬と距離を取ろうとした。
左手の近くに実津瀬を寄せ付けたくないらしい。しかし、実津瀬は構わず芹の左に座った。
実津瀬と目を合わせないように芹は下を向いているが、実津瀬はその顔を覗き込んだ。
「あ……」
実津瀬は自然に左手が伸びて人差し指を芹の頤に当てて持ち上げた。
芹はとっさのことで逃げることができず、顔を上げさせられた。
「父上に?」
その短い言葉で、実津瀬が何を言いたいかはわかった。でも、芹はそれを肯定したくなくて、顔をそむけた。
「だいぶ腫れは引いたようだ。私のせいで痛い思いをさせたね」
芹の唇の左端が腫れているのを実津瀬は見逃さなかった。実津瀬とは会わないと言って、父を激高させて殴られた結果だが、もう、日も経っていて腫れもだいぶ引いたのだが。
「ねぇ、そんなに自分を痛めつけなくてもいいじゃないの。少なくとも、あなたは私のことを嫌いとは言っていない。だから、私を利用して邸を出たら?あなたは、須原のあの邸から出た方がいいと思う」
実津瀬の言葉は思ってもみない言葉であったが、芹はそんな言葉を受け入れられない。実津瀬に振り向いて言った。
「なんてことを!」
「私はあなたのことを助けたい。……好きだよ。だから、あなたと相思の間柄になれたらいいなと思っている。けれど、それよりも先に体を痛めつけられているあなたを救いたい。そうなれば、あなたの気も変わるかもしれないから」
いらないわ、そんな憐れみなんて。
芹は反射的に心の中で叫んだ。しかし、感情をむき出しにしてもこの男には通じない。何を言っても今まできいてもらえていないのだから。
鷹野は房とともに突っ立って、ここからでは声が聞こえない距離に座っている実津瀬と芹を盗み見ている。
もう一度実津瀬が芹と話ができないかと思い、間者を須原の邸に忍び込ませて、邸の者と繋がりを作れと命令した。優秀な間者は若い侍女と仲良くなり、そこから妹の房に繋がることができたのだ。最初、房は半信半疑であったが、こんなことをわざわざ言って来る者もいまいと、最後には信じた。そして、間者を通して手紙のやり取りをし、今日のこの場を設けることができたのだ。
手紙の最後に、鷹野と名前が入っていた。
房は今、初めて岩城鷹野と対面している。
にっこりと笑っているのは、房を怖がらせないためと思った。
「あなたのおかげで、私の従兄弟の実津瀬があなたの姉さまと会うことができました」
優しい声がそう言って、頭を下げた。
「いいえ。姉もあなたの従兄弟様のことが気になっているのです。でも、姉は自分の本当の気持ちを出してはいけないと思っているから……今も、もしかしたら、本当の気持ちを言っていないのかもしれません……。でも、あの方は何度も姉に話をしてくださるから、姉も気づくのではないかと思います」
「姉思いの人だね」
鷹野はそう言って目尻を落として笑うと、向こうの二人に視線をやった。
芹は声を絞り出した。
「……何度も何度もお話してきた通りです……。私は今のままでいいの」
言った後、体を小さくして、膝の上に顔を伏せる。
それでは、須原家の邸で父親に厄介者として扱われながらその生を終えることになる。実津瀬は芹にそんなことをしてほしくなかった。邸から出る自由をわかってほしいと思った。
「それはだめだよ」
実津瀬は言った。すると、芹は目だけ出して返した。
「私のことだから、いいの。あなたは……とてもいい人。こんな私にいつも優しい言葉をかけてくれるもの。でも、何かの悪戯で、私たちは出会っただけ、それだけよ。あなたには次に出会う女人が待っているはずだから、これでおしまいにして」
「……本当に?……本当に、お別れでいい?私は嫌だよ」
実津瀬の言葉に、芹は頷いた。
「私の心は変わらない。あなたに報いることはないわ」
芹はその時は、しっかりと実津瀬の顔を見つめて言った。
実津瀬は芹の目の中を覗き込んだ。自分の顔を映す瞳は澄んだ水面のようだ。
「……わかった。しつこくして申し訳なかった」
実津瀬は言うと、立ち上がり芹に手を差し出した。反射的に実津瀬に近い左手を上げてしまった。実津瀬は芹の左手首を掴んで立ち上がらせた。
実津瀬が立ち上がったことで、鷹野と房は顔を上げた。話が終わったのだ。こちらに来る実津瀬と芹を二人は笑顔で迎えた。
「房殿、ありがとう。姉さまをお返しするよ」
実津瀬の後ろを着いて来ていた芹を房の前に押し出した。
離れたところにいた従者が立ち上がって四人を窺っている。
「お供がいるから、邸まで帰られるね」
房が頷いた。
「では、気を付けて、ね」
実津瀬と鷹野は従者の後ろを着いて行く二人を見送った。一度、最後を歩く房が二人を振り返って頭を下げるとすぐに前を向いて姉に追いついて並んで帰って行った。
その後ろ姿が小さくなったところで、鷹野が訊ねた。
「で、話はまとまったかい?」
「……ん、まとまった」
「よかったじゃないか」
「……気持ちは変わらないそうだ。私はまたも振られたよ」
「えっ!」
鷹野は実津瀬の言葉を聞いて驚いた。こうまでして会いたいという男に女人はほだされるものと思っていたが。
「鷹野、世話をかけたね。もう、これで終わりだ。私の気持ちにもけりが着いたよ」
そう言って、鷹野に向けた実津瀬の顔はすっきりとしたものだ。
「いいや、私が勝手にやったことだから、気にしないでくれ。しかし、それほど頑なな人とは思わなかった」
実津瀬は振り返りもと来た道を歩き出した。遅れて鷹野が続く。
世には岩城実津瀬の妻になりたい、ならせたいと思う者はたくさんいるのだ。実津瀬がこの縁にすがらなくてはならない理由はない。
「まあ、実津瀬は黙っていても女人が寄って来るだろうから」
「それは、鷹野も同じだろう。……よくも悪くも」
岩城の権力をうまく使いたい者、すがりたい者、奪いたい者。よいも悪いもが岩城一族の者をめがけて集まって来る。真実の愛もあれば、利用するだけのこともあるだろう。それを己で見極めるだけだ。
実津瀬は雪のことを思い出していた。
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